私の課長時代

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2016/3/25  (1/2ページ)

 ■日揮はクウェート国営石油会社(KNPC)から製油所の改修工事を受注した。受注額は3500億円超で過去最高。1985年に現場の財務責任者として赴任した。

1986年、クウェート国営石油会社の財務担当者(右)とクウェート市内のレストランで夕食を食べた(右から2人目)1986年、クウェート国営石油会社の財務担当者(右)とクウェート市内のレストランで夕食を食べた(右から2人目)

 クウェート市から自動車で約40分走った砂漠のど真ん中に建設現場がありました。砂嵐が発生すると窓を閉めていても室内が砂だらけ。朝起きたら顔に砂がかかっていました。赴任直後に上司が交通事故に遭い帰国してしまったので、日本人の財務担当は私1人だけに。部下は4人のインド人です。

 午前6時に出勤し、午後5時から9時ぐらいに帰宅するのが常でした。国際電話は高価なので日本とのやりとりは手書きのファクスで済ませます。建設にかかった費用に日揮の取り分を上乗せする「コスト・プラス・フィー」という日揮初の契約形態だったため、費用を証明しに連日、KNPCに通いました。

 ■現場労働者も含め2万人規模の大プロジェクト。費用を巡るKNPCとの交渉は楽ではなかった。

 費用として計上できるものは契約に記載されますが、書類をそろえて交渉する必要がありました。当時30歳だった私はKNPCの担当者に「大変だな。もう少し年を取れば立派な財務責任者になれるよ」と言われるなど、悔しい思いもしました。この時の経験で、相手に言うべきことは言う度胸がつきました。ずうずうしくなり、帰国後に日本の百貨店で値切ろうとしたら妻に注意されました。

 工事は無事終了し、87年に最後の日本人として“店じまい”にあたりました。次々にスタッフを解雇し、大男のインド人に泣かれたこともあります。でも彼は数カ月後には別の職場で生き生きと働いていました。人事に情を持ち込まず能力で判断することを学びました。仲良しクラブでは組織は運営できません。

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