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私の履歴書 復刻版 井深大

第7回 戦時中 盛田君との出会い 新兵器の研究会が縁で

井深 大(ソニー創業者)

2012/5/7 (1/2ページ)
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ソニー副社長盛田昭夫氏ソニー副社長盛田昭夫氏

 日本光音でいろいろなことをやったが、だんだん軍関係の仕事が多くなってきた。日本光音は元来16ミリのトーキーをつくるのが目的の会社だったので、いろいろ新しいことを片っぱしからやりたい私には日ましに窮屈になってきた。

 友愛学舎時代から話のよく合った小林恵吾君と仕事上のことでちょいちょい会っているうちに、ひとつ2人で好きなことをやろうやということになってしまった。小林君は当時横河電機で航空計器をやっていた。

 そこでやはり光音の社長だった植村泰二氏と、小林君が一員であるライオン歯磨関係から資本を出してもらい、昭和15年に日本測定器を発足した。社長は植村、専務が小林、常務が私という陣容で総員約30名、東京五反田のロータリーのそばのパン屋の横丁をはいったところにある小工場だった。ここで私たちは測定器などいままで世の中になかったものもいろいろ開発したが、私たちは仕事の上で一つのイデオロギーを持っていた。

 そのころ電気屋と機械屋がはっきり遊離していて電気屋はなんでも電気的に、機械屋はすべて機械で解決しがちだったのを、その中間をうまく縫って両方の特徴を生かした仕事をしようというのが根本の考え方だった。

 陸海軍の技術研究所などでは私たちのやり方にたいへん賛成してくれて、つぎからつぎへと仕事ができて困らなかったが、だんだん自分たちの考えている方へ誘導して仕事をやりやすくした。

 機械的な固有振動を電気的のものにうまく利用しようというわけで、音叉(おんさ)発振器だの周波数継電器の試作研究を進めた。それが無線操縦や電探(レーダー)の周波数標準などにどんどん使われだして、いそがしくなる一方だった。大東亜戦争が始まり、翌年は月島にあった片倉の工場を借りて従業員も10倍くらいにふえた。

 従業員の中で役に立つのがしだいに召集されて困ったが、一方学徒動員で学生をまわしてよこされた。傑作だったのが上野の音楽学校の学徒だった。先に述べた音叉その他周波数に関係のあるものの調整で、普通にやれば周波数測定器と首っぴきでたいへんなのが、得意の音感で音叉1本あれば測定器なしでどんどん仕事が片づいた。音楽学校の学生も自分の才能が役に立つので大喜びだった。ときどき工場で、従業員もいっしょになって大音楽会が催され、娯楽の少なくなっていくときだけにたいへん楽しい思いをした。

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