改善魂やまず(18) 阪神大震災 復旧の最前線に
トヨタ自動車元技監 林南八氏
阪神大震災が発生。
1993年、高岡工場(愛知県豊田市)の改善にメドがついた頃、生産調査室で世界展開を図れという辞令が出ました。北米通いと併せ、好川純一さんが立ち上げたサプライヤーの自主研究会に出るため国内を飛び回る日々が始まりました。
被災した住友電工の工場
95年1月17日、あの阪神大震災が発生したのです。朝には大したことのないような報道でしたが、時間の経過とともに生々しい映像が送られてきました。
関西出張中の同期入社の浅田洋正君から電話があり「被害は甚大だ。復旧に重機は使えない。バールとジャッキ、そしてチェーンブロックを持って、できるだけ多くの手だれを送り込んでくれ」と依頼が来ました。
トヨタ本社では生産管理部長の木下潔さん(前東海理化会長)を対策本部長として支援活動を始めていました。大西利美副社長に「容易ならぬ事態なので自分が現地に入り指揮を執ります」と申し出たところ「すぐに行ってくれ」との指示。早速職場へ戻って先発隊の人選です。朝倉正司課長(現常務理事・田原工場長)をはじめ神経がずぶとく雑草のDNAを持った人間を選び『ランドクルーザー』で出発しました。
家族の安否が先決。
通常3時間で到着できる所ですが、昼前に出発したのにダイハツ工業の池田工場(大阪府池田市)へ着いたのは夜中の2時。ダイハツの寮に1泊し、翌朝に住友電気工業の伊丹工場(兵庫県伊丹市)に入りました。驚いたのは従業員の大半が被災3日目なのに出勤し、復旧活動に就いていたことです。「家は大丈夫か」と問いかけると「全壊しましたが家族は全員無事で避難所に入っています」という。「君がここにいていいのか」と聞くと「会社の再建なくして生活の再建はありません」との答え。ただただ感心させられました。
聞くところでは、住友電工の古川信雄専務が工場の近くにお住まいで、真っ先に駆けつけ、従業員の安否を確認した上で、保安要員を残し全員速やかに帰宅するよう指示されたそうです。これがあったからこそ先ほどの答えがあったのだと大変勉強になりました。
トヨタの主力部隊は到着後、ひっくり返っていた4~5トンもある700台の設備を2日で立て直し、3日目には加工を再開させました。住友電工にメドがつくと、富士通テンの復旧部隊長の宮谷孝夫部長(元豊精密工業社長)から「苦戦している。メドがついたらこちらを応援してくれ」との電話がありました。
インフラは伊丹よりダメージが多く、飲み水もままならない状態でした。我が部隊は取引先の復旧とトヨタからタンクローリーを呼び寄せ近隣のケアに努めました。朝倉君は粗野に見えるが実に緻密。大変感謝されトヨタの評価を上げることができました。