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1943年5月、東京で父林太郎、母珙子の間に4人兄弟の第3子として生まれた。

父は九州の修猷館高校を経て、陸軍士官学校と陸軍大学校を出た生粋の軍人です。若くして大佐となり大本営の参謀まで務めあげました。南八という名前は中国の韓愈が俗称『南八』という名君をたたえた散文からとったので、名君南八にあやかり、なおかつ日本が南に末広がりに広がるその要の男となれとの意味も込めたと聞いています。母はとても優しい人で自慢の美人でした。

のびのびすごした幼少期(右端が筆者)

のびのびすごした幼少期(右端が筆者)

生まれた時は体重1600キログラムの未熟児。戦争中で保育器などありませんでしたが、しぶとく生き延びました。1歳になるかどうかという時には疎開先の信州茅野で、しょうこう熱にかかってしまいます。上諏訪の病院で一命はとりとめたものの39度の熱が10日間も続く事態に。医者からは脳がダメージを受けている恐れがあるので10~11歳で様子をみてから小学校に入れなさいと言われていたそうです。

小柄ながらも無事に育ち、小学校には普通に入学できました。軍人だった父は兄には期待も大きく大変厳しかった半面、私に対しては無事に育ってくれればいいという姿勢で臨んでいました。というわけですから子どものころは「林家のトム・ソーヤー」と呼ばれるぐらい自由気ままに外を走り回っていました。

厳しい父から規律を学ぶ。

主な遊び場は防空壕(ごう)の跡地や復興にかかわる建設現場です。小柄ですしけんかは弱かったけど気は強かったですね。米兵からチョコレートやガムをもらうのも楽しみでした。仲間内では私が一番多くのお菓子をもらっていました。英語などできないくせに臆さず相手の懐に飛び込んでいたからでしょうか。

私には比較的優しかった父ですが、こと規律となると別です。けんかに負けて帰ってくると「やり返してこい」と家に入れてくれないこともありました。今は暴力を振るえば問題になりますが、あの当時は関係ありませんでした。小学校の担任だった北村昭典先生もスパルタで厳しい人。叱られることへの免疫はこの頃に身についたのだと思います。

父の話に戻りますが、戦後は公職追放もあって新たに職を探す必要がありました。参謀時代に日本の戦況を財界人に説明する担当をつとめていた縁もあり、デパートの白木屋の鏡山忠男社長が「うちで働かんか」と声を掛けてくれたので、白木屋デパートの地下にあった機械工場を引き受けることになりました。当時は鍋や電車のつり革の取っ手など、売れるモノは何でもやったそうです。この白木金属が現在のシロキ工業でトヨタ車の部品を手掛ける大きな会社になりました。

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