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1980年前後に大野耐一副社長と鈴村喜久男主査が相次ぎ退職した。

元祖とカリスマリーダーがいなくなった後、TPS(トヨタ生産方式)をどう展開するか不安でしたが、大野さんの薫陶を受けた楠兼敬氏が84年に副社長になり生技生産部門を統括することになりました。楠さんは大野学校の門下生だった好川純一さんを生産調査室のトップに据え、より強力な推進を指示されました。

現場で説明を聞く池渕氏(右)

現場で説明を聞く池渕氏(右)

好川さんは苦労されたと思います。鈴村流の強引なやり方は自分に合わない。どう民主的な進め方をするか色々トライをしたようです。この苦労があったからこそ継続性が担保できたと感謝しています。私は新体制の生産調査室の仕事には関与せず、製造課長の業務に専念しておりました。

海外工場へのTPS導入に関わる。

この時期、師範代として私を鍛えてくれた池渕浩介さんは米ゼネラル・モーターズ(GM)との合弁会社NUMMIへ副社長として出向。同じく張富士夫さんも米ケンタッキー州の工場へ社長として出向しておりました。相談する相手が身近にいなくなり、自分で頑張るしかありません。

そんな時、エンジン等のユニット系部品をNUMMIに送っている製造課長は米国の現場を見に行って不具合を直してこい、との指示が楠副社長から下りました。初めての海外出張です。「英語をやっておけばよかった」と思ったものの後の祭りでした。

変われば変わるものだと感心したのは池渕さんと再会した時です。モタモタしていると二言目には「おまえやる気があるのか」と部下を叱責する瞬間湯沸かし器のような方が、NUMMIでは怒らず根気良く米国人を説得していました。池渕さんは私を見つけて声を掛け「アメリカ人は納得しないと動かんぞ。わからんでいいからまずやってみよでは通じないと心得よ」と注意されました。

そう言われても私の英語力では無理です。ただ、当時は今と違って仕事はできるが英語はダメというメンバーが多数駐在しており、彼らは現地現物で身ぶり手ぶりで説得していました。これが原点です。下手に英語で説得するより分かりやすく、米国人の信頼も得ているようでした。

もう一つ、池渕さんが「教える」というスタンスを一切とっていないことにも感心しました。名門GMとの合弁のため、従業員は車を造った経験者ばかりです。彼らのプライドを傷つけてはいけないという配慮があったのだと思います。

米国人に限らず日本人も一緒です。製造課長という役職をもらい、結果を急ぐあまり高圧的に取り組んでいた自分に気付き、大変勉強になりました。しかし、怒るべきところはしっかり怒るということも忘れずに取り組むこととしました。

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