私の履歴書 復刻版 本田宗一郎

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2012/3/8  (1/4ページ)

コンビを組み、大きな夢を語り合ったころの本田宗一郎(左)と藤澤武夫。コンビを組み、大きな夢を語り合ったころの本田宗一郎(左)と藤澤武夫。

 私の会社の人物評として、よく“技術の本田社長、販売の藤澤専務”といわれるが、その藤澤武夫君と私との出会いは、ドリーム号の完成した昭和24年(1949年)8月であった。

 当時モーターバイクが好評で、作るそばからどんどん売れる。自分がくふうしたものが人に喜ばれて役に立つということに無上の喜びを感じていた私はもうけの方をつい二の次にしていた。そしていつのまにか月産1000台もの企業に拡大してしまっていたが、そうなると売り先は小さな自転車屋とか終戦の混乱に乗じてかねもうけをたくらむヤミ屋、復員した連中といったきわめて不安定なおとくいさんである。この時分、日本全体が不安定な世相だったのだから、おとくいさんだけを不安定呼ばわりするのは少しおかしいが、とにかくきのうは店を開いていたと思って売り掛け金を回収に行くと、次の日には店は閉まっていて、本人はどこへ夜逃げしたのか、だれも知らないといったぐあい、品物は出ても代金がほとんどはいらない。

 これではこっちが破産してしまう。弱ったなと頭をかかえているところへ現在本田の常務をしている竹島弘君が藤澤君を紹介してくれた。竹島君は戦時中、中島飛行機にいて、私が東海精機で作ったピストンリングを見て、これなら使えると私に中島の仕事を手伝わせるキッカケを作った人である。

 ちょうど同じころ藤澤君もいまならインチキともいえるひどいバイト(削り機に用いる刃物)を作って中島に納入していたので、竹島君は私と藤澤君の2人を知っていた。その竹島君が終戦後通産省に勤め替えして私の仕事の担当局にいたので、私がつぎつぎと発明をし新製品を出すには出すが、かねが取れないで困っていることをよく知っていた。そこで「おかねのことなら藤澤にまかせておけばなんとかするだろう。そうすればお前の苦労は減って好きな技術の道を歩けるようになろう」というので2人を会わせてくれたわけである。

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