私の履歴書 復刻版 本田宗一郎

この記事をはてなブックマークに追加 この記事をmixiチェックに追加
印刷
2012/3/1  (1/2ページ)

 終戦となってピストンリングの製造は完全にお手あげとなった。東海精機の株主であるトヨタからはトヨタの部品を作ったらという話があったが、私は断然断わって私の持ち株全部をトヨタに売り渡し身を引いてしまった。戦時中だったから小じゅうと的なトヨタの言うことを聞いていたが、戦争が終わったのだからこんどは自分の個性をのばした好き勝手なことをやりたいと思ったからである。またGHQ(連合軍総司令部)の財閥解体、工場解体指令でトヨタも解体されるのではないかといううわさもあり、ここできれいさっぱりと縁を切った。

 トヨタに東海精機を売り渡して得た金は45万円。これを元手に次になんの仕事をしようかと考えたが、なかなか見当がつかない。こんな混乱の時にガタガタしてもしかたがない、1年間ようすを見ようと尺八など吹いて遊び暮らしていた。

 東海精機の工場が残っていた磐田(いわた)にアルコール工場があり、そこで私は思い切ってドラムかんにはいった医薬用アルコールを1本1万円で買って来た。終戦直後の1万円というのはかなりのもの、これをわが家にデンとすえつけ、これを使って好き勝手に自家用合成酒をつくった。そしてしょっちゅう友だちを呼んできては飲んでいた。

 そのころ磐田に警察学校ができ、私は頼まれてそこの科学技術担当の嘱託になった。むろん無給である。だが退屈で困っていた私はいい遊び場所ができたとばかり、例の自家用酒をぶらさげて行って飲んでは将棋をさしたり、オダをあげていた。

 この期間はこれといった仕事もしなかったかわり、遊びながらいろいろなことをやった。みんなが食糧に困っていた時代なので浜松の海岸で電気製塩をやり、塩1升と米1升を交換して喜んでいた。技術屋だから製塩などは良質のものが人より器用にできた。

 そのうち女房らは、私が遊んでばかりいていつまでたっても本気で事業に取りかからないのを見て心配しはじめた。私が敗戦ボケでふ抜けになってしまったのではないかと思ったらしい。しかし、私としては遊んでいてもただ遊んでいたわけではなかった。次に何をやろうかと絶えず心ひそかに考えていた。

<< >>
バックナンバー

この連載の一覧
著者プロフィール