私の履歴書 復刻版 本田宗一郎

最終回 社内にしみわたる理論尊重の気風(下)

「私の履歴書」はこれで終わるが、私はまだ50代の若さである。ほんとうの履歴書はこれから始まるといっていい。この手記は、いわば、人生の中途で、一本の里程標を記したようなものなのだ。しかも、事業家の立場か…

第17回 社内にしみわたる理論尊重の気風(上)

 世間では本田はアプレだなどというが、外からはあぶなそうに見えてもそこは非常に慎重にやっている。よその会社は工場を先に作ってから品物を作りは…

第16回 米国並みの研究費をつぎこむ(下)

 36年(1961年)6月、こんどは西独のハンブルクにヨーロッパ・ホンダを設立した。ここでも米国と同じ理由で日本人はたった2人だけ、あとは全…

第15回 米国並みの研究費をつぎこむ(上)

 34年(1959年)6月、私は輸出伸長をはかるため、ロサンゼルスにアメリカン・ホンダモーターを設立した。50万ドルの許可が大蔵省からおりた…

第14回 国際レースに勝ち世界一へ

 さて、英国のマン島では毎年世界各国の優秀なオートバイ関係者が集まり技術を競うTTレース(ツーリスト・トロフィー・レース)というのがある…

第13回 不況下、不眠不休で代金回収

 世間では本田技研といえば株価が何倍になったとか言って、いかにも順風満帆で今日まで何事もなくきたかのように思っている人が多いが、やはり企業の…

第12回 借り着で藍綬褒章を受ける

 E型エンジンの完成でドリーム号の評判は上がったが、当時としてはまだ高価すぎて簡単に普及するというわけにはいかなかった。そこで私は、もっと普…

第11回 東京に進出、初の4サイクル

 私の会社の人物評として、よく“技術の本田社長、販売の藤澤専務”といわれるが、その藤澤武夫君と私との出会いは、ドリーム号の完成した昭和2…

第10回 バイクからオートバイづくりへ(下)

 こうしてできたエンジンが現在のホンダのオートバイエンジンの基礎になった。もとはといえば、それまで遊びに行くたびに乗り回していた自動車がガソ…

第9回 バイクからオートバイづくりへ(上)

 終戦となってピストンリングの製造は完全にお手あげとなった。東海精機の株主であるトヨタからはトヨタの部品を作ったらという話があったが、私は断…

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