私の履歴書 復刻版 井深大

この記事をはてなブックマークに追加 この記事をmixiチェックに追加
印刷
2012/6/11  (1/2ページ)

ソニー研究所前で植樹する筆者ソニー研究所前で植樹する筆者

 最後にソニーの歴史の落ちこぼれをもう少し拾い集めてみよう。

 昭和29年、東北大学金属材料研究所と連絡上のこともあり、仙台付近の多賀城にテープとフェライト(磁性鉄心)の工場を新設した。以来年々増設して材料関係の有力工場に育ってきた。一方本社工場もだんだん手狭になってきたので厚木に約13万平方メートル(約4万坪)の土地を求めてトランジスター関係の生産工場を移すことにした。昭和35年の秋完成し、若い女子従業員の手で毎月150万個のトランジスターを生産している。また昭和36年5月には横浜市保土ヶ谷の新道側の山の上にソニー研究所ができあがった。鳩山所長以下80名、おもに半導体の基礎問題と取っ組んでもらうのが目的である。時間はかかるかもしれないが楽しみな存在である。

 次はなくなった人たちのことであるが、会社のいちばん苦しい時にお金の苦労をしたままで病没した長谷川監査役、ニューヨークで、楽しみにしていた本社を見ることなく急死した山田志道嘱託、当社の赤ん坊時代から少年時代まで手をとって育ててもらった今はなき万代前会長と前田前社長等々、走馬灯のように思い出されてくる。

 年々ソニーも名物のようになって、見学に来られる内外の人数も毎月3000人から5000人になってきている。皇太子、同妃殿下は別として、ロバート・ケネディ夫妻、ダニー・ケイ、ハロルド・ロイドらは印象深いお客様だった。

 赤旗のうずまくストライキのさなかに秩父宮妃殿下はじめ池田首相、水田、小坂、荒木、椎名、石田各閣僚以下300名のお客様を迎えなければならなかった36年5月の当社創立15周年祝賀会は、私にとって忘れることのできない日であった。また日本としても初めての経験であり、当社の事務部門にとっても前代未聞の大仕事だったADR米国公開も、36年の大事件だったが、これは盛田副社長の全くの一人舞台で詳しくは彼がこの履歴書を書くまで時をかしていただきたい。

<< >>
バックナンバー

この連載の一覧
著者プロフィール