私の履歴書 復刻版 土光敏夫

最終回 21世紀見つめ 見習いたい“行革町長” 個人は質素に、社会は豊かに

 福岡市の東約13キロに、人口7700人の久山町という町がある。周辺は、大都会福岡の都市圏として喧騒(けんそう)の渦中にあるが、ここだけはひっそりと美しいたたずまいを保っている。マイペース、マイウエー…

第31回 先手を打つ 欠かせない自前の技術開発

 ところで私は、経団連会長時代、1年に数回から10回以上、海外へ出かけた。その一つは、8割以上中東に依存している石油の供給先の多元化をはかり…

第30回 エネルギー問題 石油節約、待ったなし “突貫作業”で政府に意見書

 石油ショックの不況は、各企業の努力によってなんとかのりきったが、その他にもまだまだ並行して、問題は次々にやってきた。まずはじめは、昭和49…

第29回 石油ショック “行動する経団連”掲げ 気息えんえんの経済界にカツ

 私が経団連会長に就任した昭和49年(1974年)は、一種の“経済乱世”であった。  48年末、値段が一挙に4倍にもハネ上がるという石油シ…

第28回 経団連会長に 推され逃げ出せず… 石坂さんも「やったらいい」

 昭和49年(1974年)5月、私は経済団体連合会の第4代会長に推された。その前に、43年から、植村甲午郎会長の下で、副会長をつとめていた。…

第27回 東芝を再建 いざなぎ景気に乗る 権限委譲と適材適所が実結ぶ

 「経営者はラッキーな男でなければならない」――石坂泰三さんの口癖であったが、その意味では、私はたいへん幸運な男である。  石川島再建のと…

第26回 チャレンジ経営 自らセールスの先頭に 工場・営業所回り、社員と対話

 東芝へ来て、まず私が手をつけたことは、機構改革のほかに、全工場、支社、営業所などの訪問である。東芝には、そのころ全国に30をこえる工場…

第25回 東芝社長に 「再建」石坂氏に請われ 早朝初出社 受付で「どなた?」

 昭和40年(1965年)5月、私は、石坂泰三氏(当時、東京芝浦電気会長)の懇請を受けて、東京芝浦電気の社長に“就かされ”た。与えられた責務…

第24回 「固定観念を破れ」 経済船型など次々採用 ミスター・ダンピングの異名も

 真藤君が設計した船に「経済船型」という画期的なものがある。これは、米国の「ニューズウイーク」誌に「KEIZAI SENKEI」という固有名…

第23回 “進軍ラッパ” 気宇壮大な目標掲げる 38年には“造船世界一”に

 新会社「石川島播磨重工業」の造船重工業界での位置は、次のようなものになった。  資本金は第4位、売上高は第3位、製品別事業部でいえば、「…

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