私の履歴書 復刻版 立石一真

最終回 華麗なる老年へ 「第三の医学」を探求 健全なレジャー産業の開発も

 “我々の働きで、我々の生活を向上し、よりよい社会を作りましょう”。これは私が昭和34年(1959年)にまとめた社憲であるが、この社憲に支えられて実現した物語三つ。  その一。44年(1969年)に…

第28回 還暦で再婚 長女の“しゅうとめ”と 両家合わせて42人の大家族

 昭和25年(1950年)、妻の元子を亡くして以後、私はばあやさん相手に男手一つで6人兄弟を育てた。当初はカゼをひいたり、おなかをこわしたり…

第27回 交通信号機 無接点スイッチ使う 交差点”面の制御”に成功

 37年(1962年)のニセ札チ三七号事件の時には私どもでニセ札発見機を開発、科学警察研究所でのテストにも成功したが、結局犯人は捕まらず、大…

第26回 自動券売機 お忍びで評判探る 群管理システムも実用化

 私は昭和33年(1958年)5月の25周年創業記念式にあたり、研究部に対して5年の期限で無接点スイッチを研究開発するよう指令を出した。それ…

第25回 P工場 分権管理へ重点移す 無接点スイッチの構想浮かぶ

 話はさかのぼるが、昭和28年(1953年)に双ケ丘(ならびがおか)、妙心寺付近が風致地区に指定されたので、本社工場の拡張が規制されることに…

第24回 中央研究所の設立 予想以上に高くつく 技術屋社長の道楽との声も

 昭和34年(1959年)のドラッカー教授の第1回の来日がきっかけとなって、アメリカの経営学ブームが始まり、5カ年計画といった長期計画策定が…

第23回 オートメに着目 新制御継電器へ号令 西先生からガリ刷りの“情報”

 戦後の混乱とストライキで、辞められたり、辞めさせたりで、再建に乗り出した昭和25年(1950年)には、私も含めて総勢33人になっていた。そ…

第22回 妻の死 養生の努力も水泡に 娘の結婚続き悲喜こもごも

 昭和24年(1949年)の倒産寸前に追い込まれていたときに五男文雄が生まれた。妻の元子は出産のあと胃のあたりにコロコロしたものがあると訴え…

第21回 終戦 当日、御室工場が完成 デフレ政策で倒産寸前に

 京都、鳴滝へ引っ越してからは私は毎日嵐電・阪急・国電で野里工場へと通勤したが、長女啓子はほど近い嵯峨野高女へ、長男は御室小学校へ転校させた…

第20回 疎開 空き撮影所に分工場 自宅も京都・鳴滝に引っ越す

 昭和16年(1941年)12月8日、太平洋戦争に突入した。戦局の激化とともに旧満州開発に伴う電機の受注は減少し、また資材、労務等、すべてが…

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