私の履歴書 復刻版 竹鶴政孝

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2015/1/29  (1/2ページ)

バスに乗る筆者、リタ(前列中央)、阿部社長(後列右から2人目)バスに乗る筆者、リタ(前列中央)、阿部社長(後列右から2人目)

 摂津酒造の阿部社長がはるばる日本から船でテムズ川の港に到着されたのは、それから2カ月後であった。私とリタの2人は、長い船旅を続けて私のためにやって来てくれた社長を港に出迎え、近くのポートランドホテルに案内した。

 阿部社長は、思いやりのある目でリタにいろいろ質問したり、日本の事情を話したりされ、私がそれを通訳した。

 幸い、リタは社長のおメガネにかなったようであった。

 「優しい人だし、それになかなか美人だね。日本に連れて帰るように」

 うなずくようにいわれた。それを私が通訳してリタに告げると彼女は飛び上がって喜んだ。私たちは阿部社長をスコットランドへお連れし、リタの家にも泊っていただいて家族全員でもてなした。私とリタの結婚式は、グラスゴーのステーションホテルに牧師を呼んで行なった。阿部社長はもちろんウィリアム博士も出席され、私たちは大勢の人から心からの祝福を受けた。

 結婚式が終わると、妻のリタは生家に残して、私は阿部社長の案内役としてぶどう酒の本場であるフランスのボルドーを初め、パリ、イタリア、スイス、ドイツを見て回った。

 第一次大戦後のフランス、イタリア、ドイツなど欧州大陸の各国は、勝者敗者ともども疲れ果てている表情しか感じ取れなかった。フランスは4年にわたり戦いを続けて勝利を得たにもかかわらず、ノーベル平和賞をもらったノーマン・エンジェルがいったようにその勝利さえも「大いなる幻影」であったようだ。労働力は減り、生産力は破壊されて、フランスの北の方は、ちょうど戦後の東京の焼け野原のような状態で放置されていた。

 ドイツでは、有名なインフレーションが極度に進行していた。ドイツに着いて、ホテルから日本にはがきを出そうとしたら切手代がなんと100万マルクもしたのには目をまるくした。

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