私の履歴書 復刻版 坂根正弘

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2016/2/25  (1/2ページ)

 2001年の早い時期に安崎暁社長から次期社長を内示された。「なぜ私ですか」と聞いたところ、「君は米国で修羅場をくぐってきたからね」と言われ、自分は早めに引退するので、私と同じ副社長だった萩原敏孝さんと2人で「思う存分やってほしい」という言葉を頂いた。

社長交代の記者会見。前任の安崎さん(左)と社長交代の記者会見。前任の安崎さん(左)と

 萩原さんと私は年が近く同期生のような間柄。私は技術畑が長く、彼は企業法務中心に豊富な経験がある。役員として二人三脚でやってきたので、どちらが選ばれてもおかしくない状況だった。

 それから2年後に安崎会長は引退し、萩原さんを後任の会長に選んだ。01年6月にスタートした私の社長時代は後に世間からV字回復と評価され、私一人の功績のようにいわれることも多いが、事実は多くの社員や役員、協力企業、そして安崎さんの身の処し方と萩原さんとのコンビなくしてはあり得なかった。

 その頃コマツの置かれた環境は厳しく、主力の日米市場の低迷で、本業の建設機械でほとんど利益が出ない状態。加えて00年春以降のIT(情報技術)バブルの崩壊で、シリコンウエハー事業で大赤字を計上した。こうして社長1年目の02年3月期に創業以来初の営業赤字に陥ることが必至の状況下で、早々に手腕が問われることになった。

 当時は「失われた10年」という言葉がはやり、時代のムードは暗かった。コマツ社内も悲観論に染まり「国内生産をやめて、海外に行くしかない」という声も多かった。

 そこで実施したのが生産コストの「見える化」だ。コマツの国内工場と海外7工場で生産する同一機種の建機を変動コストに絞って詳細に比べると、通念に反して国内拠点のコスト競争力は高く、米国工場との比較では1ドル=70円ぐらいの超円高にならない限り、国内のコスト優位は揺るがないことがわかった。

 コマツは今もエンジンなど重要部品はすべて日本で生産し、海外の拠点に輸出している。建機は自動車のような大量生産品ではないので、基幹部品を1カ所で集中生産する利点が大きいからだが、日本の生産性の高さがその裏付けである。

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