私の履歴書 復刻版 坂根正弘

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2016/3/14  (1/2ページ)

 自民党がまだ野党だった2012年10月24日。新総裁に選ばれた安倍晋三現首相から、「日本経済再生本部を始めるので、最初の会合でスピーチしてほしい」と頼まれた。自民党本部に出向いて話した内容の骨子はこうだ。

孫たちと「こまつの杜」で(石川県小松市)孫たちと「こまつの杜」で(石川県小松市)

 コマツはある時期まで日本の縮図のような存在だった。1950年代には石川から東京に本社を移した。60~70年代は輸出に便利な関東と関西に工場を作り、北陸生産の比重を落とした。当時は日本全体が東京をはじめとする太平洋ベルトへの集中を加速した時代で、コマツはその先陣を切るような存在だった。

 80~90年代になると、海外生産を拡大した。円高が進み、国内生産への自信が産業界全体で揺らいだ時代である。

 だが、その後01年に私が社長に就任すると、コマツはむしろ国内回帰にカジを切った。日本の工場の優秀さや生産性の高さが数字で実証されたのが直接のきっかけだったが、その後は北陸回帰も進めている。金沢港に新工場を設けたり、本社機能の一部を会社発祥の地の石川県小松市に移したりしたのだ。

 理由は生活コストの安い地方で雇用を増やした方が将来とも競争力を維持できること。金沢港の水深が深くなり、輸出が可能になったこと。そして全く次元の違う視点だが、石川地区の女性の結婚率と出生率が東京などに比べて圧倒的に高いことがある。

 コマツの歴史をこう振り返ったうえで、私は2つのことを訴えた。一つは「こうして国内回帰を進め、現在は日本の占める生産比率が50%近くまで高まっているが、このままデフレがあと5年、10年続くと日本国内の売上比率が全体の10%以下になり、さすがにコマツも再び日本から脱出するしかなくなる。ぜひデフレ脱却を急いでほしい」。

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